ご無沙汰しております。森崎です。今日も今日とてとっても元気です。
面白い映画があったので紹介します。といっても新しい作品ではないので、ご存知の方もいらっしゃると思います。感想を自分のブログに載せたので、乱文ですがこちらに転載させて頂こうと思います。
以下転載。
金曜日は2限、3限、5限と授業が入っているハードな日。(1年生の金曜日は1限から5限まで授業が入っていたというのに。人は堕落するものです。)4限が空きになっているので、文学部設置の授業に潜りつつ、5限の刑事訴訟法の予習をしているのですが、なかなかその文学の授業が面白い。先生は生徒の授業態度に厳しくてラディカルな発言の目立つ方ですが、考え方は嫌いではありません。ちなみに前期は原発文学の授業で、大変興味深いものでした。
先週と今週は、DVDで『阿弥陀堂だより』を見ました。監督の小泉堯史は黒澤作品(『夢』『八月の狂想曲』)の助監督もされている方で、最近では『博士の愛した数式』が映画化されています。原作は南木佳士、『医学生』は読んだことありますが、芥川賞受賞作など、まだまだ読むべき作品の多い方です。
美しい作品です。ここに描かれている自然と、人間が本当に美しい。生物が「ありのまま」であるということは、涙が出るほど美しいことなのだと知りました。無理をしないこと、分をわきまえること、天命を知ること、どれも現代社会で我々が実現することのいかに難しいことか。
作家である主人公の妻美智子は、夫の故郷の村で唯一の医者として働いています。300人もの人の死を看取り、自分の子供も流産し、パニック障害を起こした美智子は、都会を離れ、村の美しい自然に触れ、人々の心に触れることで生を取り戻すことができます。身体が重篤な病気を患っていることが、病ではない。心を病んでいること、それこそが本当の病なのよ、と医者であり科学者である美智子は、そう後輩の医師に諭すのです。
なぜ人は心を病むのでしょうか。それは、死が見えていないからなのだと、私は思います。「メメント・モリ(死を思え)」というラテン語の格言がありますが、これはもともと「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬのだから。」というアドバイスだったそうです。
人は狂ったように生き急ぐ。『方丈記』の時代は、いつかは平等に死が訪れることを意識していなかったからこそ、権力者が現世に執着するのだという嘆きがありましたが、現在は死が空間的にも時間的にも遠くに押しやられたからこそ、押し並べて人は死についてよく理解しようとしない。死は悪いものであり、怖いものであると認識しています。
死は一過性のものではなく、生に連続する円環の一部です。季節がめぐるように、至極当たり前の自然の事象。それが分かっていれば、生のみをいたずらに善きものとして、しゃかりきに生を消費しようとは思わないのではないでしょうか。
有名になりたい、お金を稼ぎたい、名誉が欲しい、それは幸福になるための手段であって、目的ではありません。これらは自分が死んでしまったらおわりです。何が幸福なことなのか、まだ私にははっきりとわからないけれど、誰かに命をつなぎ、誰かの命を支えること、私が求めるのはきっとそういう生き方なのです。
自分一人の一生は、弓から放たれた矢のように、留まることなく一方方向にしか進みません。でも、そんな刹那の間であっても、めぐる季節とめぐる命は無数にあります。それを肌で感じて、心から喜び、ことほぐことのできる人生は、どれほど険しく困難な試練が何度も立ちふさがることがあろうと、とりもなおさず幸福の一つの表象であると思うのです。
